過渡期 掲示板 過去ログ-6-

624()132740 7月17日(木)14時09分02秒

 


シビリアン・コントロールの難しさ 投稿者:高望み  投稿日: 717()140902

 日本人はバランス感覚がいいのかブレやすいのか。歴史的にみるとあっという間に一方向に突っ走って大成功したり、ぎゃくに大失敗したりということが何回もあるので、わりとブレやすいのかもしれない。

 だが、他の国の歴史を読んでみると、取り立てて日本の歴史だけがブレやすいということでもなかったことはいえる。その辺の話しは、また別の機会にするとして、いまは、21世紀の安全保障意識の変化についてである。

 昭和初期、統帥権をたてにとった軍部の暴走による帝国日本そのものの自滅という体験があった。帝国日本の滅亡後、文字通り、羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、という方向に反転して、反戦平和感情が強力なものとなった。戦前的なものが全否定され、一夜にして戦後民主主義者が叢生した。
 このあたり、日本人のブレやすさを、日本人自身に痛感させた歴史体験となった。

 このような歴史的背景があるから、日本政府が軍事力をシビリアン・コントロールするなど、ほんとうにできるのか、という不安感が払拭しきれないものとしてある。これは、わたし自身にもあり、不安感というよりも実際に不安な現実的要素はあるのだと考えておいた方が堅実というものである。

 何よりも、堅実に不安項目を忘れないでおく、というあまりお人好しではない心理構造が成熟してこないことが、不安そのものの原因である。もう、戦後民主主義と平和国家で五十年やってきたんだから大丈夫、となってすぐ図に乗ってつけ上がる。そのような精神構造のうすっぺらさと底の浅さが、日本人にのこっているかぎり、現実的に不安なのである。シビリアン・コントロールなど、まだ身分不相応としかいえない。情けないことに、米国のシビリアンにコントロールしてもらっていることが担保となって、なんとか安心していられるにすぎないというのが実態である。

 それと、日本は、非合法の軍部クーデター政治が七百年も続いていたという、これこそ紛れもなく「万邦無比」に相違ない歴史をもっている国柄である。すなわち、鎌倉幕府から徳川幕府までというのは、国際標準、グローバル・スタンダードからみれば、そういうことなのである。

 それなのに、われわれは、司馬遼太郎の小説やNHKの大河ドラマで、この非合法軍政時代の物語を繰り返し繰り返し、心に刻みつけている。自分自身が司馬遼ファンだったからよくわかるが、これは意外と危険な心性なのである。こういう心性を「国民的成心」としているような「国民」に、シビリアン・コントロールがそう簡単に使いこなせるようになるはずがないのである。

 日本の新左翼運動が、第三世界でもないのに1970年前後に総非合法・軍事路線化してしまったなどという怪奇現象が起こったのも、このような国民的成心なしには考えようのないことである。

 反戦運動をしている左翼の側にまったくシビリアン・コントロールの発想がない国で、事務官僚ひとつコントロールすることがまったく不可能なこの国の政党、議会、政府が、集団的安全保障体制にのりだしてゆくことが、不安でない条件は、アメリカが究極的にコントロールすることになっている、ということだけしかないのが現実である。
 そして、現実の直視から出発するのか唯物論である。

編集済


イラク支援の支持率 投稿者:高望み  投稿日: 716()211649

 イラク支援の世論が賛成、反対ともに40数%で半々だという。ふつうなら国論二分といった状態だが、なぜだかそれほどの盛り上がりはない。

 湾岸戦争のころのPKOで自衛隊を派遣するか否かの時には、国連のお墨付きがあったにもかかわらず、90%ぐらいの反対論があったのに、今回、国連のお墨付きのない米国単独主義のイラク占領政策への「支援」に、こんなに反対がへっているのは気になる、とニュースキャスターはいっていた。

 だが、一般国民にとって、国連のお墨付きがあるかないかという判断基準は−−法的な規範意識が充分に成熟していないとすれば−−それほど重きを占めていないのではないか。
 重要な点は、一国平和主義の時代は終わったということであろう。グローバリゼーションの時代、よくも悪くも、日本が日本だけで孤立して平和を維持できるという「感覚」そのものが減衰した。

 また、アメリカにつくかソ連・中国につくかということがすべての議論の出発点となっていた時代から、はや十数年たってしまったということである。自衛隊を増強し、アメリカにつくことが、相対的にソ連・中国から離反し、それはそれで不安を呼び起こすという世界地図は、人々の意識の中でようやく歴史地図になってしまった。
 それが生きのこっているのは、石原慎太郎のような古希を迎えた世代以上の残像の中だけである。

 そして、人々は自衛隊が軍隊とよびかえられ、集団的自衛権・集団的安全保障体制のもとで海外派遣されたからといって、旧帝国日本の悪夢(石原慎太郎らにとってはいい夢)が再現するとは考えていない。なぜなら、アメリカのハイテク軍事力が圧倒的に押さえつけている今の世界において、日本のタカ派が跳ね上がったからといって、いまさらイラクや北朝鮮のような方向に舵を切ることなど不可能なことはわかりきっているからだ。(これは逆に言えば、過激派にとっても夢のない話しだ。)

 たんなるアホではないということを世界中の人々がどこにも見いだせない、小ブッシュ政権
の、度はずれたやり方ではなかったならば、自衛隊の海外派遣による人道的な支援、ということを国際社会からもとめられたときに、日本社会の世論は、半々どころか、支援支持の方向に大きく傾いたはずである。

 そこに、古希以上の世代の残像にのみ存在する悪夢や亡霊をみるのか、一国平和主義を脱却しようとする日本人の前向きの姿勢をみるのか、によって、今後の日本の政治的世界はまったく異なった色合いのものとなるはずである。

 日本の全人口の0.0何%いるかいないかの「左翼」ではなく、全人口の志向性の左半分という意味での「左派」がもんだいなのだ。この「左派」の暗黙の政治的感性を、まっとうな政治的勢力へと表出する構造を造りだせるか否か、それが、日本政治がトータルとしてバランスを失って暴走することもおこさずにすむ、唯一の可能性である。


7/1920連続闘争!! 投稿者:ザーカイ  投稿日: 714()214826

クロスポストご容赦

すべての労働者・学生・市民、そして趣味者・趣義者のみなさん!
 とにかく、一連の行動に参加しましょう!一部でもいいです^^;

 *いつもの調子でガンガン行きましょう!
 問い合せ、連絡はhansen_139@hotmail.com、まで御願いします。

STREET RAVE at SHIBUYA 
719日(土)
PARTY!! DEMONSTRATION!! and BULLSHIT!!
禁止することを禁止する!!
ANARCHY, PEACE, FREE!!DUMB

反戦=有事法・イラク新法反対 
反失業=グローバリゼーション反対 
反管理統制=相談罪(共謀罪)・生活安全条例・教育基本法改悪反対 
反石原=ファシズム反対
を呼びかけ、あらゆる路上開放を訴えます。
でも、踊るだけでもOK 途中から入っても大丈夫。

DJ
EYE (VREDOMS!!!)
MOODMAN
秘密博士(秘密研究所)
URC SOUNDSYSTEM
------------------------
START 1800 GO 1930
場所:渋谷宮下公園(渋谷駅徒歩5分)
コース:渋谷一周(予定)
雨天延期(HPにて変更日程を発表します)
http://www14.xdsl.ne.jp/~ildz/


☆わーるどぴーすなう!イラク支援法はんたいぱれーど
◆日時:2003720日(日)
  ピースコンサート:13:30〜 ラ ー:14:00
◆場所:宮下公園(渋谷駅下車明治通り原宿方面徒歩5分)
  パレード:15:00〜 渋谷一周コース

■主催:WORLD PEACE NOW実行委員会  http://www.worldpeacenow.jp/
■連絡先:市民連絡会 東京都千代田区三崎町2-21-6-302 〈電話連絡先〉アジア太
平洋平和フォーラム(APPF)03(3252)7651/CHANCE!pono2 
090(3812)3777/日本消費者連盟 03(5155)4765/ピースボート 03(3363)8047/平
和をつくり出す宗教者ネット 03(3461)9363/許すな!憲法改悪・市民連絡会 
03(3221)4668  worldpeace@give-peace-a-chance.jp 

★イラク派兵・占領を許すな! 720集会→デモ

日 時:720() 18:00開会  18:30デモ出発
 会 場:新宿公園(営団地下鉄丸の内線「新宿御苑」下車 新宿2丁目・太宗寺ウラ)
 地 図(注:新宿中央公園ではありません! 前回と同じ2丁目の「新宿公園」です)
 http://yurayura.k-server.org/images/map_ShinjukuPark.gif
 主 催:ヤメロ!イラク派兵行動委員会(E-mail: yurayura2003@hotmail


いいんです。 投稿者:高望み  投稿日: 714()061826

 なんだかパソコンの調子が悪化して、二度も書き込みが途中で消滅してしまいました。

 勝手な思い込みの世界なんですが、高杉さんは直観的に、アジア的な<革命>の悲劇的な弁証法を透視しながら、でもそのときの瞬間を精一杯に闘って、幸運にももののみごとに図にあたると同時に夭折してしまったという、稀有なる詩的革命家たりえた幸運児ではなかったかと。

 周知のように、長州藩からは藩閥政府や帝国陸軍、戦後の岸信介、佐藤栄作、さらには安倍晋三(この「晋」の字!)が廃出されてしまいます。そこにあるのは、アジア的な<革命>の弁証法とその悲劇性ではないでしょうか。

 「艱難ハトモニスベクモ富貴ハトモニスベカラズ」という決め台詞のうちに、そうなることはあらかじめわかってしまっている、ニヒルな高杉さんがいるような気がします。

 高杉さんが四国亡命生活のおりに聞いた土地の神話で、寝続けていた神様が起きたとき言ったという言葉、「ましばし、い寝つるかも」(しばらくの間、寝ていたようだ)が、妙に気に入ったという話しも、長眠体質のわれわれにはなんだか霊妙な逸話では。(臨夏さんはまだ読んでない巻だったかも。)


この話題は、ここでええのでしょうか。 投稿者:臨夏  投稿日: 714()015716

やっとこ、『世に棲む日日』読んでます。
緊縮財政なんで、4冊いっぺんに買えず、3巻読み終わって次読みたいとイライラしてます。
しかし、吉田松陰も見直しました、というか、すごい仁者的革命家ですが、
思想家としての才能は、よう見えません。佐久間ぞうさんは大丈夫に見えますが。

「動けば雷電を生ず」高杉さん、ええでつね!!
わたしは、この人について、じつはほとんど知らんかったんで、
大いに勉強になってます。
というか、桂さんも知らんし、幕末長州史知識自体が、大きく欠けてたのでした。

でも、めちゃくちゃおもろい歴史ですね〜、ファンは多いのかな?
世の中の婦女子も、AB団にも比すべき、反動テロリスト集団新撰組に嬌声あげるんやったら、
もっと正統に高杉さんを偲べ。
坂本さんももち、可。
江藤さんやったら、もっとよしw

唐突ですが、わたしは、自分では、自分のことを、純度とスケールの小さい
松陰みたいやな、思いました。
私見ですが、どことなく似てるような気がします。

高望みさんは、高杉に気がいくんですか?
わたしも、この人には死んで欲しいなかったなあ〜、
まだ4巻読んでませんが。

あと、この作品、司馬にしては、珍しく、政論なんかも論理的で、
幕末の志士の思想なんか、瓦礫じゃろ、思てたわたしには、目鱗でした。
当時ならではの政治思想があるんですねえ!
しかも、いろんな人がおる。


京都精華大学の松尾眞先生のウェブサイトより 投稿者:高望み  投稿日: 713()222245

 同じ内容のものがウェブサイトからも読めました。そこでは、冒頭部分で、ちゃんと財政問題が説明されていました。ヨーロッパでも事情はきびしいようです。ただ、このような情報を聞く場合に注意しなくてはならないのは、もともとヨーロッパでは、大学に対して日本の二倍の財政支出がなされてきたということです。すなわち、出し過ぎていたので少し減らしていきましょう、その分を初頭・中等教育にも回しましょう、ということだということです。
 だから、日本は依然として、もっとどんどん大学(学生の奨学金という形態がよいですが)に対して財政支出を増やしていくべきだと言うことはブレてはならない点だと思います。

 ↓京都精華大学の松尾先生のウェブサイトより
http://www.kyoto-seika.ac.jp/matsuo/magazine/backnumber/49.html
7日の朝日新聞夕刊(大阪本社版)の文化欄に、潮木守一氏(教育社会学:桜美林大学教授)の「目隠しされたフンボルト──予算削減に揺れるドイツの国立大」と題する論考が掲載されていて、興味深く読んだ。

フンボルト大学といえば、1810年にベルリン大学として創立された由緒ある名門大学であるが、そのフンボルト大学が政府から予算カットされたため、今年秋から新入生の受け入れを停止するというのだ。時あたかも、日本では9日、国立大学法人法が成立し、来年4月から国立大学が法人に移行することが確定した。

潮木氏によれば、フンボルト大学は1995年頃から数回にわたって予算カットの措置をうけ、95年当時には373人あった教授ポストが2003年には305人になっているという。大学側は、今回の予算削減に対応するには、さらに教授ポストを35%削減する必要があるとしているという。予算カットの背景にはドイツ国家財政の窮迫がある。

編集済


こんなのもあったようです。 投稿者:高望み  投稿日: 711()181625

 参院での採決の前日あたりになって、ようやくこんな記事を出したこと自体、どういうつもりなのかと思ってしまうが。マスメディアとしての「良心」のアリバイ作りですか。。。

国立大学法人化で始まる「学問の不自由」と「役人パラダイス」
  『サンデー毎日』2003720日付 138140
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/sunday/2003/0720/index.html
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▼580「官僚天下りポスト」創設で100億円の大盤振る舞い
▼哲学、文学…カネにならない学問は衰退

(遠山敦子文科相の写真の下部に)ノーモア省
(小柴昌俊氏の写真の下部に)ノーベル賞
そして、大学はどこへいく

 「これほど大臣が審議中に頭を下げた法案も珍しい」。
国会関係者はそう口をそろえる。満身創痍の「国立大学
法人法」の成立に向け、文科省はしゃにむに突っ走った。
その背後には「大学の自主性を重んじる」という美辞麗
句とは裏腹の、どす黒い打算が見え隠れする。

◆旧七帝大の著名教授がこぞって反対!◆

◆文科省との「パイプ役」探す大学◆ 


RE:元中核派全学連委員長松尾眞先生のWMより 投稿者:高望み  投稿日: 711()152837

>>私は、その意味で、先に引用した潮木氏の論考で紹介されているベルリン大学
 (フンボルト大学)の設立構想・理念を今日的に再評価すべきだと思うのである。

 潮木守一氏の『ドイツの大学』を読んだ限りでは、とてもフンボルト理念を肯定的に「再評価」しそうには思われなかったのですが。彼によると、研究と教育の一体性を掲げるフンボルト理念によるドイツの大学は、通念とはまったく逆に、いちはやく19世紀中に、教授の研究タコツボ化と学生教育のレジャーランド化をもたらした、というのですから。

 わたしには、財政の中での高等教育・研究費や私学助成金や、ヨーロッパとはいわずせめてアングロサクソン諸国並みの奨学金制度などといった、経済学的な側面に主要な関心があるのですが、松尾氏にはそういった観点はまったく関心がないようですね。教育現場の視点て、田中真紀子のいってた主婦の台所からの視点というのに似ています。もちろん一番大事なのは現場には違いないのですが。

編集済


元中核派全学連委員長松尾眞先生のWMより 投稿者:野次馬  投稿日: 711()052546

京都精華大学の松尾先生のメールマガジンにこのテーマと関連する記事があったので
一部引用します。(ご指摘の諸点については後ほど)

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 ■学生にとっての大学の意味・意義 ── 大学「改革」反対論の問題点
 
 私は最近まで、大学行政にかなり深く関わっていたので、とくに私立大学の経
 営の厳しさは承知しているつもりである。そして、経営の立場、観点から見る
 と、昨今の大学「改革」論、あるいはその手法に一定の「合理性」があるとも
 思う。
 
 しかし、私はなんとかして「いい大学」を創りたいと思い、そうした「合理的
 策」との間でギリギリとした緊張関係を維持するように努めてきたつもりでは
 ある。
 
 そういう中で、いくつかの大学「改革」反対論(とくに国立大学法人化反対
 論)に触れる機会があったが、あまりインパクトを受けなかったし、違和感を
 感じるものすらあった。すべてがそうだというわけではないが、教授ポストの
 確保や研究費の確保に議論の重点があり、学生の立場からみて、どういう大学
 が望ましいのかという視点での議論が不足しているように思ったのである。
 
 私は、その意味で、先に引用した潮木氏の論考で紹介されているベルリン大学
 (フンボルト大学)の設立構想・理念を今日的に再評価すべきだと思うのであ
 る。
 
 「知性の使い方を訓練する」──私は大学の最大の使命、学生にとって大学で
 学ぶ意味・意義は、まさにこの点にあると思うのである。たしかに、「啓蒙」
 という概念・発想法はポスト・モダニズムによって散々に貶され、旗色が悪い
 ようである。たしかに、モダニズムの“単純な進歩史観”のようなものは徹底
 的な再検討の対象である。しかし、モダニズムや啓蒙主義の問題点をのりこえ
 る途は、モダニズムや啓蒙の単純否定にはなく、人間の知性への基本的信頼を
 土台にすえて、批判的思索を徹底的に深めていくなかにこそあるのではないだ
 ろうか。
 
 私は、勤務する大学で「リベラル・アーツの確立」、「読み書き能力の形成」
 を強調している。しばしば言われる「大学生の学力低下」は、「ゆとり学習に
 よる基本科目の学習時間の減少」や「受験科目の少数科目化による未履修科目
 の増大」などに基本的原因があるのではない。考えてもみればあきらかだと思
 うが、18歳にもなった人間が、自らの学ぼうとする学問分野に対する知的興
 味・関心が旺盛であれば、仮に高校までに履修していない科目があるせいで、
 大学の講義がよく理解できないとなれば、自学自習によってさえ必要な知識を
 補充することは可能である(もちろん補習授業の提供もあってよいが)。
 
 問題は、大学に入学していながら、大学で何を学ぼうとするのか、その関心・
 問題意識が曖昧な学生が多いことである。「18歳人口の約半数が大学に進学す
 るほど、大学が大衆化すれば、それも当然」という声も聞かれるが、私はそう
 ではないと思う。
 
 日本の小中高教育では、「考える力」を培う教育がなされていない、いや、
 もっと正確にいえば否定されていることにこそ、問題があると思うのである。
 そして、さらに、私が大学に勤務するようになって強く感じることは、大学教
 員が学生を馬鹿にしていて、自らの問題意識を学生に率直にぶつけていくよう
 な授業をしていないケースがかなり多いということである。学生が「授業が理
 解できない」とか、「興味がもてない」と言う場合、その原因がどこにあるの
 かを真剣に追究していないと思うのである。どうやら、多くの教員にとって、
 大学というものは、生活費を確保し、研究生活が送れる安全地帯を確保するた
 めの場に過ぎないようなのである。
 
 逆に、学生のかなりの部分は、学ぶ力、考える力を培うことを強く求めてい
 る。教員が積極的かつ真剣な働きかけをすれば、相当の力をつけ、成果を挙げ
 る学生が出てくる。嘘だと思われる方には、是非、私が勤務する京都精華大学
 環境社会学科の1期生が取り組んだ「2002年度調査演習」の優秀作品をご覧い
 ただきたい。


かくて、東大は解体されず! 投稿者:高望み  投稿日: 7 9()180801

1971年の中教審答申の基本イデオロギーたる「受益者負担原則」が、高度成長期から低成長期にかけての日本の人々の素朴な実感と合致したからではないでしょうか。

 東大生の親は高級官僚や大企業の重役が多く、平均的にみれば高額所得者である。にもかかわらず、授業料が安いのは一般国民からみて割が合わない。「受益者負担原則」は、東大についてはまったく正しいし、大賛成です。
 しかし、旧二期校クラスの地方国立大学には全然あてはまらない話しですよ。親がリストラされて学費が払えなくなって退学していく学生というのは、決して珍しい逸話などといったものではありません。

 日本の一般庶民というのは、東大や早大の固有の問題が、大学全般の問題だといわれれば、素直にそれを信じてしまいます。言論や情報・通信の回路を全部、東大や早大の出身者に牛耳られているので、そこのOBがたんなる個別的な見識を、あたかも普遍的なことのように思い込んで垂れ流す見識が、そのまままかりとおってしまうのです。

 日本国家のしくみにおいて、なんらの決定権限も有していない町や村のおじさん、おばさんたちに、大日本帝国の「主体的な」「倫理的」「責任」を脅しつけ、「君の心が戦争を起こすのだ」などと、言っても栓のないことを言い触らすのが、良心的な進歩的知識人だったのと同じ構図が、まだ日本社会では生きているわけです。

 かくて、東大は解体されず、旧二期校クラスの国立大学だけが解体され、地方の平凡な庶民のはかない上昇のルートは、ますます遮断されていくわけです。

編集済

フォームの始まり


結局、法人法案は無傷で通過したらしい 投稿者:高望み  投稿日: 7 9()174149

>おぼろげな記憶ですが在学生の授業料が値上がりするわけではなかったと思います。「切実」というのは、具体的にはどういうことなのかよくわかりません。

 野次馬さんの時代にも授業料値上げ反対闘争なんてあったんですか?! 当時はインフレで−−物価上昇に学費値上げが追い付かず−−学費はむしろ実質値下がりの時代ではなかったかと。

>以前にも申しましたが、自民党の代議士から町のおじさんおばさんに至るまで、大学卒であれ高卒以下であれ、大学関係者以外は誰一人として大学を研究機関とも教育機関とも考えていないのではないかと思っています。

 それは、以前にも申しましたが、個別、東大という莫大な税金をムダにして日本全国の秀才をダメにする特異な学校についてのきわめて正しいイメージでしょう。でも野次馬さんが考えているほど、世の中は「研究」や「教育」に過大な幻想をいだいていなかった分、東大以外の大学にたいしては、地方中産階級の教育機関や、地方経済に関連した地道な研究機関、教育機関としての幻想はまだありますよ。そして、これは文科系=レジャーランドについてではなく、あくまでも理工系についての話しですよ。

編集済


高望み様 投稿者:野次馬  投稿日: 7 5()033928

>一般学生にとってどれだけ切実かという次元の問題であったと思います。

とはいっても、おぼろげな記憶ですが在学生の授業料が値上がりするわけではなかったと思います。「切実」というのは、具体的にはどういうことなのかよくわかりません。授業料値上げ反対というのは、自らの所属している大学が、異質な存在に変わっていってしまうことに対する不安と反発、つまり当時なりの私学の「大学(経営)改革」への、パトスに由来する反発が基本にあってのではないかと考えての投稿です。

>というのは情緒的な倭族のいかなるパトスのありようによるものなのか? もし本当なら、それはそれでたいへん興味深い、じめじめした日本的内ゲバワールドと同質の、分析対象の一つかもしれません。

このあたり、1971年の中教審答申の基本イデオロギーたる「受益者負担原則」が、高度成長期から低成長期にかけての日本の人々の素朴な実感と合致したからではないでしょうか。現実にはそのように機能していないにも関わらず、大学に入るということは中流階級上層に属すためのパスポートであり、身分購入のための対価ということで社会的に許容されているのではないかと思っています。以前にも申しましたが、自民党の代議士から町のおじさんおばさんに至るまで、大学卒であれ高卒以下であれ、大学関係者以外は誰一人として大学を研究機関とも教育機関とも考えていないのではないかと思っています。

編集済


芸能感想録 投稿者:高望み  投稿日: 7 4()200708

 「コーディネートはこうでねえと」という、「ホラーの女王」佐伯日菜子によるオヤジ・ギャグがモー娘。系の番組で頻繁に使われるが、放送作家によほど佐伯ギャグにフリーズさせられた人がいるようだ。。。

>>萩原聖人さん(31)、和久井映見さん(32)夫妻が4日離婚したことが明らかになった。

 柳生宗矩ははたして?


ここはよくわからないのですが 投稿者:高望み  投稿日: 7 3()201929

 野次馬さんの書かれたことで、次の箇所はどうなんでしょうか?

>>少なくとも,日本の高等教育関連の文教予算は欧米に比べて格段に低いということを根拠にして,1960年代のように学生が学費値上げに反対するという構図はありえないことだと考えます。学生運動に限らず社会運動はロゴスよりもパトスに起因されると思うからです。>>

 授業料値上げ反対闘争というのは、日本がまだ貧しかった時代において、ロゴスかパトスか知りませんが、一般学生にとってどれだけ切実かという次元の問題であったと思います。たしかにフランスではいまでも授業料値上げ反対をはじめ、さまざまなことで学生運動が起こったりするのは、フランス独特のパトスもあるとしか思えません。

 しかし、西欧ではほとんど無料、小泉改革がこれから真似をしようというニュージーランドでは五万円、米国では公立大学は三十数万円ということにたいして、日本は七十万円で何も文句も出ない、というのは情緒的な倭族のいかなるパトスのありようによるものなのか? もし本当なら、それはそれでたいへん興味深い、じめじめした日本的内ゲバワールドと同質の、分析対象の一つかもしれません。


現状認識を語ればニヒリズムに陥るばかりですが。。。 投稿者:高望み  投稿日: 7 2()150401

 現実認識に大差はないと思います。問題は、このような現状を突破することは、とても永い期間にわたってできないという時代が続くということなのでしょうね(

 ただ、現実認識と理念的言語とをどう積み上げてゆくかが、そのとても永い期間の過ごし方をまったく違ったものとすることは自明のことであります。

 日本というのは、安保闘争から四十年たっても、日本社会の変化や世界情勢の変化や、経済体制思想の根本的変化にまったく無知なまま、サヨクはサヨクで存在し続け、官僚は官僚で腐敗し続け、保守政治は岸信介ラインと吉田茂ラインの縮小再生産を続けている、という、きわめて特異な倭族の政治的社会とでもいうほかないものです。そんな所においては、持続的に認識と言語を更新しながら蓄積し続けるということを探究する以外に、出口はないのではないでしょうか。

 わたしがイメージしやすい財務省、金融庁、日本銀行の方面ではまともな話しはまったくありません。経済産業省は旧通産省で進歩的なイメージがありますが、限界はあります。総務省もいまの大臣のリーダーシップのもとでそんなに悪いイメージではありません。もちろん、複雑な諸立場の利害の錯綜は当然あります。
 省庁はおよそありとあらゆる領域をカバーしていますから、個々の断片的な事柄をみて議論してもキリがありません。

 トータルとして、明治以来の近代的官僚制と、根付かない議会制民主主義との問題を、いまの歴史的位相の中でどうとらえるのか、ということが背景図としてあって、大学改革にしろイラク新法にしろ、さまざまな問題を位置づけて考えてゆく。認識を深め、言葉を積み上げてゆく、そういうこと以外には、これからのとても永い期間にわたる日本社会の衰退過程につきあってゆく途筋はないのではないでしょうか。

編集済


行政という計画装置 投稿者:野次馬  投稿日: 7 2()120845

国土交通省では数年前に,河川法の全面改正を行い,それまでの「治水」「利水」に加えて「環境」を河川管理の目的に加えました。現実に可能かどうかは別にして,治水や利水は近代的な工学理論に基づき計画を立てそれが現実に達成できたかどうかをチェックすることが可能です。しかしながら,複雑系である「生態環境」はなまなかなことでは予想はつきません。つまり,行政は自らが万能でないことを認めなければならないのです。そのことについての現場の反発が著しいと聞いています。

ところで,これと逆の事態が文部省に起きているのではないでしょうか。戦後長い間,大学には学生運動というものがあったおかげで,それをバックにした教授会を前にして文部省はなまなかなことではここには手をつけることができませんでした。ある程度までは状況任せにして,事務官によって間接的に規制するしかなかったのです。

その後,学生運動と大学との共生関係が崩壊していきます。全共闘の一部は寄生主である大学機構の存在そのものを脅かすガン細胞化し短期間で自滅していきます。内ゲバ党派(主に私大においてですが)は大学との共生関係を深め,学生運動弾圧機関へと自らを純化していきます。

こういった経緯により1970年末までには,学生運動はほぼすべて自滅してしまいます。その自滅過程の中で1971年の中教審答申の線にそって文部省は改革をすすめていきます。ようやく文部省も建設省や運輸省並に,国家10ヵ年計画を立てることができるようになったのです。最初は授業料の段階的値上げ,その次には「共通一時」入試を導入しました。この頃までは筑波大学がモデルケースでした。しかしながら,福田学長の統一教会疑惑など社会的な批判にさらされ,大方のアカデミシャンの非協力に終始し,この大学は社会的なステータスを得ることに失敗しました。

そして1980年頃からは東大駒場キャンパスがモデル地区とされたように思えます。中沢新一教授採用問題,小林康夫たちによる教養課程授業改革,駒場寮問題などがその中で社会問題化しました。ここでの成果を按配して,全国的な教養部解体が展開されていったのでしょう。

ところで,国立大学の入試科目数削減それ自体は,バブル期(団塊ジュニアたちのベビーブーム期)における,ある程度の学力をもった生徒の争奪戦(首都圏私大と地方国立大学との)の結果だと認識しております。

高望みさんのおっしゃることはまことにもっともだとは思うのですが,「官僚食い潰し国家」として諸悪の根源たる「文部官僚」を言挙げしてみたところでどうにもならないことではないかと思っています。現状については行きつくところまで行くしか仕方がないのではないでしょうか。

少なくとも,日本の高等教育関連の文教予算は欧米に比べて格段に低いということを根拠にして,1960年代のように学生が学費値上げに反対するという構図はありえないことだと考えます。学生運動に限らず社会運動はロゴスよりもパトスに起因されると思うからです。

団塊の世代は子育てに失敗した,という俗論をよく耳にします。高度成長期を最後にして「大学による知の独占」などは過去のものと化しているわけですから,基本的には,両親とも高学歴の家庭において知の伝承がどのようになされているかがすべてだと思います。もし一切伝承されないようだったならば,それは「幻の高度成長時代」が与えた付け焼刃にすぎなかったとあきらめるしかないでしょう。

編集済


頭脳流出すらできなくなりつつある将来の日本人 投稿者:高望み  投稿日: 7 1()204509

 ↓ 官僚食い潰し国家のもと、マイルドな「北」化がすすんでいるというのは、はたしてヒステリックな過敏症だろうか? ならいいんだけど

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6/30産経【正論】西村和雄(京都大学教授)「国際競争力失いつつある
日本の高等教育 目を覆う大学院生らの学力低下」
http://www.sankei.co.jp/news/seiron.htm
≪評価急落する日本人学生≫
 この数年、アメリカの大学院に学生を送り出していて疑問に思っていたことがある。優秀な学生を推薦しているのに、入学許可がなかなか出ないからである。他大学の教官の何人かに聞いて、どこでも同じ状況であるとわかった。

 多数の日本人の経済学者を輩出している東部の名門Y大学では、この四年間は、一人も日本人に入学許可を出していないという。京大からアメリカへ留学し、今は、やはり東部の名門B大学で助教授をしているN氏は、今年は、彼が審査委員会に入っていたので、やっと日本人学生に入学許可を出せたという。それでも昔なら容易に取れた授業料免除もなしである。

 やはり、東部のP大学の工学系の教授は、「日本からの大学院生は、学力が低くて、とてもついていけない。痛々しいのでもう入学させない」と言う。アメリカの大学院の日本人学生への対応の変化を知って、ついに来るべきものが来たという感想をもった。

 以前も日本を代表する国際的企業の経営者から「会社の研究職に日本人技術者は雇用せず、すべて中国人を雇っている」と聞いた。そして松下電器も来年度から採用技術者の五分の二を日本人から外国人に変えるという。(中略)

 現場を知らない人たちに、過度の権力が与えられたことで、改革を通じて、教育・研究は形骸(けいがい)化し、行政の力が肥大化した。中央集権を維持したままの改革ということでは、国立大学の独立行政法人化も同じ運命にある。このまま進むなら、結果として、文科省のコントロールが強まるのと引き換えに、日本の大学の国際競争力が失われてしまうことであろう。
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編集済


パーティ 投稿者:高望み  投稿日: 7 1()200338

 先週土曜日は、『革命ロシアの革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』の編著者であったさらぎ徳二氏の追悼パーティがあるというので、袖触れ合うも多生の縁というよりもう少しは縁もあったか、と思って出席してきた。

 まあ、寄るとさわると2.2とか7.6とか、反復される第二次ブントの葬式のような感じではあった。
 そのあとの三次会では新宿某所で小野田譲治氏に遭遇した。十数年前にいちど西部邁氏とのシンポを聴いたことがあったけど、あの頃と比べるとすっかり何かが抜けたような感じで、にわかには同一人物だとわからないほどだった。新著の出版記念パーティをやると言っていた。


つまり、 投稿者:高望み  投稿日: 627()205823

誤解されているのかもしれませんが、独法化やその先にある私学化の方向性をいちがいに批判しているのではなく、独法化法案のじっさいの中味が、今まで以上の、世界に類例の皆無な、超官僚統制型の制度として、こっそりと文部官僚とそのOBである遠山文相らによって書き換えられている、ということを、衆院を通過して参院で審議している今頃になってようやく多くの人々が騒ぎ出したということなのです。

 ただ、現実には無数の学問、研究、教育等々にかんする山積みの問題が錯綜しているので、はなはだ議論が堂々巡りしやすいのですね。

編集済


証拠を残さず天下り機関へと誘導される現実 投稿者:高望み  投稿日: 627()194532

>[6] 6/26 東京新聞 「法人化で数百人天下り 国立大「役員」に官僚出身者」
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> 交付金や業績評価 国との調整役に
> 大学側構想
> 国立大学などを国の行政機関から離す来春の独立法人
>化に伴い、各大学に新設される役員ポストに、文部科学
>省などの官僚出身者が多数選任される見込みであること
>が二十五日、大学関係者らの話で分かった。国からの予
>算獲得などをめぐる大学間競争に備えるためで、こうし
>た「天下り」は全国で数百人規模に上るとみられる。法
>人化は大学の自主性を高めるとされるが、経営の管理や
>立案能力に乏しい大学が、官主導の運営に陥る懸念も広
>がっている。
>
> 法人化後は、学長と学長が任命した理事、文科相が任
>命した監事が役員となって、民間の経営手法を取り入れ
>ながら大学経営を主導する。
>
> 役員数は大学の規模などによって異なるが、一大学に
>つき四−九人。今秋の統合後の八十七大学・二短大で、
>計五百三人が予定されている。
>
> 大学関係者らによるとこの役員ポストに文部科学、総
>務、財務など各省庁の官僚出身者を迎える構想がある。
>予算として配分される運営交付金の配分や、業績評価な
>どを握る国との調整役として、転換期の即戦力とす
>るためだ。法人化法案はまだ参議院で審議中だが、既に
>「いい人材がほしい」と大学側から打診を受けている省
>もある。

編集済


それから 投稿者:高望み  投稿日: 627()193441

野次馬さんの大学体験はうすうすはわかるきもしますが、わからないこととして一般的に話し進めますと、大学世界というのは学部、分野ごとにまったく別世界を形成していまして、自分の体験だけで他を推し量るということは困難なところだということには十分留意すべきだと思います。

 わたし自身は、たまたまC大法学部というマンモス学部を素通りして東大・院で宇野経済学を学び、比較的小規模な旧二期校の旧・教養部から人文学部と、多様なところを経験してきました。とくに教養部時代には自然科学系、体育系、語学系とも同じ組織に所属したりしたので、上記のことを痛感した次第です。

 また、そのことと直結するかどうかはわかりませんが、世間というものが求めている「大学改革」というのは、ほとんどつねに理系の話しであり、文系のことは関係がありませんね。せいぜい、都市部の有名大学にしか関係のないロースクール、ビジネススクールだけでしょう。

 それで、理系のことはさっぱりわからないのですが、少なくとも、二年連続で三人もノーベル賞をとったりする日本の「国立大学」のどこがレベルが低いというのでしょうか?

 レベルが低いというか、優秀だったはずの研究者の素質や膨大な予算を無駄にしているのは、特定、東京大学という特殊な大学ではないのでしょうか。だったら、東大解体をやればよいのであって、なんでノーベル賞学者を出している京大や筑波、名古屋、東北が巻き添えにならなくてはならないのか?という素朴な疑問さえ湧いてきませんか?


RE:帝国大学と旧制高校の狭間に 投稿者:高望み  投稿日: 627()191011

>>高等農林、高等商業などの各種高等専門学校、が県別に統合されて、戦後になって、アメリカ型の大学(リベラル・アーツ教養学部)に改組されたあたりの、GHQの意志、受け入れた日本側教育関係者の意志、戦後社会の民衆の意志あたりから解明されなければならないのではないかと思います。>>

 そのあたり、天野郁夫さんという教育学者の本で概略がつかめます。

>>戦後に、官選知事から民選知事に変わることによって、どの程度地方自治が進んだのかよくわかりません。
高望みさんが、日本の戦後地方国立大学をアメリカ合衆国の州立大学に擬そうとされる「思い」は推察できないことはないのですが、そういう類推が可能なほど、日本国とアメリカ合衆国の社会システムが似ているとは思えません。アメリカの州は日本の県とはまったく違うでしょうが、私見では、アメリカの州立大学に相当する(地域のための大学)はここ20年ほどの間に各地で開学した県立大学ではないかと思っています。>>

 それは論点が違うのです。州=state つまり邦ですよ。連邦の邦、国家なんです。でも、地方公共団体=地方政府か中央政府かというのは、経済学的にはどうでもよいことなので、ようは公共財・公共サービスを税金を使って供給する機関だということが重要なのです。日本では、国公立と一括りにすることが多いのですが、ここでの問題は、国公立大学を税金を使って供給することの経済学的な有効性なのです。

 他方、さいきんマスコミを賑わしている地方自治の三位一体の推進云々といった話しは、別の次元の問題です。これは三位一体の話しだけでもなかなか複雑ですし、そこに国立大学と公立大学の話しを絡ませると、大変入り組んだ話しになると思いますので、必要に応じて戻ることにして、とりあえずはカッコに入れておきたいと思います。

>>私見では、一方に「あこがれの旧制高校」があって、中等学校並の進学率が達成された「新制高校」という、学校名称のインフレと並行して、帝国大学も私立大学も高等専門学校もひとしなみに「大学」と呼称されることが広く歓迎されたということではなかったかと思います。>>

 そのような論点は、まさしく1960年代の論点でした^^; たしかに倭族の社会ですから四十年前となんら変わっていない部分が圧倒的に多いのは確かですが、宿痾を抱えたまま、新しい問題が次々と重畳してきています。
 1990年代以降にでてきているのは、ベクトルが逆で、社会に出てすぐ役に立つような教育カリキュラムを、産業界にすぐ役に立つ研究を、という圧力が非常にストレートに出てきているということです。

>>戦後教育改革そのものをもう一度照射してみないことには、せまりくる反動改革についての、強行する「文部官僚」、甘受する「国民」いずれの側についても、その心理機制はなまなかなことでは解明できないと思います。>>

 ここは、おっしゃる通りと思います。ただ、「反動改革」という認識は間違いです。上っ面で主張されていることは現実対応のプラグマティックな「大学改革を」ということであり、その部分は私は「甘受」せざるをえない不可避的な根拠があると思っています。

 それが問題なのではなく、いちばん問題なのは、執拗に書き込んできているように、そのような上っ面の主張が、法案作成や行政の実務においてことごとく180度転倒して、すべて天下り利権機関化するようになっていることに、まだまだ多くの人が実感が湧いていないということです。まだ自覚症状として現れてこない内臓疾患の病巣のものすごさが実感としてないというか。。。家屋の内部構造が巨象のようなシロアリに食い尽くされていることが、まだ居間にいて目の当たりにされていないというか。。。

 むろん、それ以外にもたくさんの問題が絡まり合っています。
 でも、国立大学の独法化で、いま現在、国会でも問題となっている焦点は、そこにあるのです。

編集済


帝国大学と旧制高校の狭間に 投稿者:野次馬  投稿日: 627()022555

あった、次のリストに見られるような、高等農林、高等商業などの各種高等専門学校、
(おそらくはドイツ語圏のホッホシューレに範をとったであろうと推測しています。他に高等医学専門学校、各種の師範学校もありました。)

http://www.libro-koseisha.co.jp/contents/Zs/html/ZS051.html

が県別に統合されて、戦後になって、アメリカ型の大学(リベラル・アーツ教養学部)に
改組されたあたりの、GHQの意志、受け入れた日本側教育関係者の意志、戦後社会の民衆の意志あたりから解明されなければならないのではないかと思います。

このあたりについては、憶測以外の根拠はありません。戦後に、官選知事から民選知事に変わることによって、どの程度地方自治が進んだのかよくわかりません。

私見では、一方に「あこがれの旧制高校」があって、中等学校並の進学率が達成された「新制高校」という、学校名称のインフレと並行して、
帝国大学も私立大学も高等専門学校もひとしなみに「大学」と呼称されることが広く歓迎されたということではなかったかと思います。

現実には、島成郎たち「安保ブント」をつくった方々に代表されるように、旧制帝国大学はその後も、社会的に特別な位置を占めていたのでしょうが。

戦後教育改革そのものをもう一度照射してみないことには、せまりくる反動改革についての、強行する「文部官僚」、甘受する「国民」いずれの側についても、その心理機制はなまなかなことでは解明できないと思います。

高望みさんが、日本の戦後地方国立大学をアメリカ合衆国の州立大学に擬そうとされる「思い」は推察できないことはないのですが、そういう類推が可能なほど、日本国とアメリカ合衆国の社会システムが似ているとは思えません。アメリカの州は日本の県とはまったく違うでしょうが、私見では、アメリカの州立大学に相当する(地域のための大学)はここ20年ほどの間に各地で開学した県立大学ではないかと思っています。


ひとくちに「大学」といっても 投稿者:高望み  投稿日: 626()221859

東大京大早稲田慶應というブランド名だけではないのですね。ところが、言説空間を掌握しているマスコミ人士は100%そういったところの出身者です。しかもたいていは東大コンプレックスに凝り固まったW系。。。「国立大学の独立行政法人化」について内容的な検討をいっさい欠いた超安直な文科省翼賛報道の姿勢は、たんにかれらの東大コンプレックスの垂れ流しにすぎません。

 しかしながら、国立大学というのは旧二期校クラスの駅弁大学のほうが社会政策として重要な意味をもっているのですね。これは、都会人やマスコミ人士や、もちろんアカデミック志向の研究者にもまったく視野の外にあることなんです。

 私はだから、旧帝大〜旧一期校クラスを米国のアイビーリーグなみに私学化して悪いはずはないと主張しています。でも、米国にだって地方国立大学にあたる州立大学というのがあるわけです。
 そこでの学費は三十数万円です。日本の国立はいま五十数万円ですが、独法化すれば七十万円ぐらいになります。つまり、市場原理主義の祖国であるアメリカの二倍になるわけです。

 ここまで地方庶民の懐具合を考えもしないというのは、アメリカのネオコンや市場原理主義やグローバリストが聞いても、きっとビックリするに決まっている、という話しが、またもう一つの論点としてあるのです。

 そして、これもまた、「一事が万事」ということで、いま日本で起こっている政治・経済的知性の総崩壊の一つの露呈の仕方だといわざるをえません。


(無題) 投稿者:高望み  投稿日: 625()222305

 それとやはり、歯の浮くような日共民青のような論法でしか、大学とか学問とかについて語る言葉をもってこられなかった、日本の言説空間そのものの末期症状のひとつの露呈の仕方なんだろうな、と感じます。


(無題) 投稿者:高望み  投稿日: 625()222042

 おっしゃるとおりです。わたし自身の大学「改革」批判の一連の文章でも、そのようなことは十分に議論しているつもりです。

 ただ、論点は無数に絡まり合っていて、そのなかで大きいのは、「一事が万事」という点なんだろうと思っています。わたし自身、C大の出身ということもあって、国立とか国家公務員ということにこだわった議論は辟易しています。問題は、「制度設計」にあります。「自由化」を進めろ、という掛け声で、委託された業者(=官僚)に丸投げしていては、ここまで見事に天下りと省益統制の法案が臆面もなく出されてくる、ということです。

 そういうことの学習効果を積み上げていくことが、むしろ一番大きいのでは、という思いです。


感想 投稿者:野次馬  投稿日: 625()164915

>独法化によって教育や研究がどうして向上しうるというのか。
ただただ馬鹿げているのだが。
>省益統制のもとにおいて学問・研究を食い潰す法案に気が付いたらなっていた。

ご指摘の件はまったくその通りだとは思います。それでも、なかなかしっくりこないのは日本社会においてごく例外的にしか(ノーベル賞が話題になるときなど)大学というものが、学問・研究機関であると認識されていないからではないかと思います。また、日本ではおそらく誰一人、大学をまともな教育機関とは思っていないのではないでしょうか。

一般の人々にとって大学というのは、東大京大早稲田慶應というブランド名、偏差値ないし大学入試難易度による序列、ほぼそれらとパラレルな暗黙によるそれぞれの社会階層への再選別という意味以外あるのでしょうか?

日本共産党系の「独法化」批判の文章を読んで、胸にすとんと落ちないのはそういったことです。高望みさんが継承された「宇野経済学」などを例外として、一般読書人にとって「大学があったことによる知的収穫」についての実感がないことが、今回のこの馬鹿げたということを通り越してむしろ「反知性主義」としかいえないような「改革」に対する幅広い無関心を醸成しているのではないでしょうか?(以上、当方の無関心の所以を陳べた次第です。ただし、一般の大学への不信は私たち内ゲバ時代において極め付きのものとなる戦後学生運動によるところも大であると思います。)


草臥れ 投稿者:高望み  投稿日: 624()232446

 実際、このような時間まで不毛な会議をしなくてはならない状況が生み出されている。独法化によって教育や研究がどうして向上しうるというのか。ただただ馬鹿げているのだが。

 土石流のように、馬鹿げた政策が次から次へと繰り出されてくると、それに対するまともな批判など誰にも追いつかなくなってしまう。かくして、いまやくたびれはてて、売りと買いが転倒して認識されてしまうほどまでに、倭族の認知能力は衰弱しつつある。。。


小泉首相もかわいそう 投稿者:高望み  投稿日: 624()132740

 文科大臣に遠山敦子などという文部官僚あがりをあてて、実務的に堅実に仕事をしてくれるだろうと期待していたのだろうけど、国立大学の独法化の法案も、いつのまにやら国立大学を官僚の天下り利権機関化して、省益統制のもとにおいて学問・研究を食い潰す法案に気が付いたらなっていた。。。 
 一事が万事、上でいくら掛け声だけかけたって、もうこの国はサヨクよりも、強力なる白蟻官僚に食いつぶされるのは時間の問題。

 『週刊文春』で数ページのグラビアを使って世界中の暴動を紹介して、いまや暴動も起きないのは日本だけ、などとヘンな使嗾をしていた。。。

 倭族はA型比率が高すぎるのが卑小な国民性の原因ともおもえるが、吉本さんも味さんもA型だから一概にはいえないし(謎。。。

編集済

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